三丸興業の歩み
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大正12年(1923)9月1日 横浜大震災
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1923年(大正12年)
1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生。
横浜は一瞬にして灰燼にきします。それを機に横浜商人の多くは拠点を東京や関西へ移転。 しかし福三郎は、「横浜の人が横浜を離れてはならない」と主張。頑として横浜を離れず、街の復興に全力を尽くしました。
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昭和初期渡邊銀行・渡邊同族株式会社 社屋
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1923年(大正12年)
そして、1923年(大正12年)12月、渡辺合名会社は、渡辺同族株式会社へと改変されます。
しかし、世界恐慌、太平洋戦争へと続く激動の時代の中で、会社は再び大きな転換期を迎えます。
1945年(昭和20年)、長く苦しい戦争が終結。
昭和10年頃の渡邊銀行
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左:第4代社長 渡邊利二郎
右:第5代社長 渡邊広太郎左:明治38年 横浜植木株式会社
右上:輸出用カタログより
右下:鉄砲百合選別作業第6代社長 渡邊健二郎
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1947年(昭和22年)
その2年後の1947年(昭和22年)、渡辺同族株式会社は、三丸興業株式会社へと改称。
不動産業と有価証券投資を主な業務として、再出発をはかります。
そんな三丸興業のもとに、地元の園芸会社、横浜植木の経営建て直しの要請が入ります。
横浜植木は1892年(明治24年)設立。植木・球根の輸出、欧米式園芸の導入、日本庭園や盆栽の海外への紹介など、日本における近代園芸業の草分け的存在でした。
しかし、戦後、急速に業績が悪化し、存続の危機に立たされていました。そこで、三丸興業が救済にのりだしたのです。
そして、十年に及ぶ経営再建の結果、見事横浜植木の再生に成功します。
一方、三丸興業も、高度経済成長による土地再開発の流れの中で、事業内容の変換を迫られていました。
そして、従来の土地賃貸から、ビルを建設して賃貸する方向へと転換を図ることを決意します。
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三丸馬車道ビル(丸井馬車道館)
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1980年(昭和55年)
1980年(昭和55年)には、長年の開発案件であった三丸馬車道ビルが完成、丸井馬車道館としてオープンしました。
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横浜新関内ビル(三丸興業本社)
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1984年(昭和59年)
そして1984年(昭和59年)、横浜新関内ビルが完成、オフィスを賃貸するとともに、本社を移転しました。